Slow Luv op.2 -3-


(8)

 練習以外の夜で悦嗣の時間が取れた日は、「日本のオーケストラを聴いてみたい」というさく也に付き合って、演奏会に出かけた。十二月のこの時期は、ベートーヴェンの第九ばかり。そんな日本のコンサート事情は、
「こんなに同じプログラムばかりで、聴きに行く人間がいるのか?」
彼には不思議に思えたようだった。結局、彼は昼間に一人で行ったコンサートも入れて、五回も第九を聴いたらしい。
「聴きに行く人間が、ここにいたってわけだ」
と、悦嗣は笑った。
 模範演奏の練習を二人が一緒にしたのは、当日を入れると三回だけ。今回の二曲が、悦嗣の弾き慣れた得意系の曲ということもあって、合わせることだけに集中することが出来た上に、さく也のヴァイオリンとは相性が良いのか、もしくは彼が悦嗣の力量に合わせてくれているせいか――後者なのだとしたら、伴奏者として情けないことなのだが――、たいして時間を掛けずに済んだのだ。
「力量に合わせて弾いたことなんかない。合わせなきゃならない人間と演れるほど、心広くないし」
 当日、大講義室に運び込まれたグランド・ピアノを、自ら調律する悦嗣の様子を見ながら、さく也は答えた。ピアノはホール用のフルコンサートで、月島芸大一の名器である。
「あんたは自分のピアノに自信がないのか?」
「ないね。楽しんで弾くのは好きだけど、人前でしゃっちょこ張って弾くの慣れないんだ。そんなのでいい演奏が出来るとは思ってない。だからピアニストになれなかったのさ。まあ、今日は母校だし後輩の前だから、ちったぁ気が楽だけど」
 それでも緊張はしている。調律する手が冷たいのは、ワイヤーやピンを触っているせいだけではない。半年前のコンサートで英介に指摘されるまで、自分の指が本番前に冷たくなることに自覚はなかった。
――いつも英介が手を握ってくれてたのか。
 チューニング・ハンマーを持つ右手を見る。あの時の英介の柔らかい手の温もりが蘇った。
でもそう言う時って、出来がいいんだよな。エツは緊張したら開き直って、肩の力が抜けるから。今日はいい演奏が出来る
 声が、笑顔が、悦嗣を励ます。
「…ッシュン」
 脇でくしゃみが聞こえ、英介の幻は消えた。
「空調入れたばっかで冷えるから、部屋に戻ってろよ。まだリハ、出来ないぞ」
「珍しいから見てる」
「物好きだな。俺の上着、羽織っとけ」
 イスにかけていた上着をさく也に手渡した。一瞬触れた手が冷たい。こちらは緊張からというわけではなさそうだった。
「ほらみろ、手、冷たいぞ。ポケットにカイロが入ってるから」
 遠巻きに学生達が二人を見ていた。悦嗣はただのOBにすぎないが、さく也は『中原さく也』なのである。ザルツブルグ当時のことを知るものは少なくても、半年前のコンサートと大人達の騒ぎ様で、その有名はすでに知れていた。ソロで弾くと言うので、尚更、興味津津といったところだ。ヴァイオリン専攻の学生などは特に、お近づきになってレッスンをつけてもらいたいと思っているのだろうが、さく也の冷たい印象が彼らの足を止めていた。
 学生の中には夏希の姿もあった。悦嗣が調律の仕事をしている時は、たとえ場所が実家であっても、彼女は決して邪魔をすることはなかった。さく也が彼女に気がついて、悦嗣に教えた。顔を上げてそちらを見ると、夏希が満面の笑みで手を振った。兄が応えてくれたのを確認すると今度は、
「さっく也さーん」
とさく也に向って力いっぱい手を振る。彼女のよく通る声は部屋中に響いた。さく也は少し面食らったようだった。
「ちょっと手を振ってやってくれ。後でうるさい」
 悦嗣の言葉に、さく也は腰のあたりで躊躇いがちに手を振る。あきらかに複数の黄色い声がして、慌てて手をコートのポケットのしまい込んだ。それを見て、悦嗣は声を出して笑った。
 調律が終わって、一時休憩をとったあと、リハーサルとなった。その頃には学生たちも追い出され、講義室には演奏者二人と二、三人の大学関係者が残った。立浪教授もその中にいる。
「手、温まったか?」
 ケースから楽器を取り出すさく也に、悦嗣は声をかけた。
「これくらいなら弾ける」
 自分の手はまだ冷たい。カイロを握っても温まるのはその時だけだ。部屋はすっかり温かくなっているというのに。
 月島の学生の前で弾くだけで、こんなに緊張しているなんて。悦嗣は自嘲気味に笑った。両手に息を吹きかけて、ピアノの前に座った。




(9)


 曲の始まりから終わりまで、痛いくらいの静寂が部屋を支配していた。
 模範演奏の会場として用意された大講義室には、定員の倍以上の人間が入っていたのだが、その存在をまるで感じさせない。皆が皆、呼吸さえも忘れている――一曲目の『なつかしい土地の思い出 第二曲スケルツォ』が終わって何のリアクションもない『会場』を、悦嗣はちらりと見回した。割れるような拍手が沸き起こったのは、残響と演奏の余韻が、完全に消え失せた瞬間だった。
 使用された講義室は、サロン・コンサートを考えて設計されていた。拍手は渦となって響き渡り、その経験のない迫力に、悦嗣は気圧される。
 さく也はというと、拍手が鳴り止むのを弦を調整しながら待っていた。応えることなく。こういったことは慣れているのかも知れない。
 拍手はなかなか止まなかったが、さく也はそれを無視して悦嗣にAを要求した。彼がチューニングを始めると、ようやく周りは静かになった。
 悦嗣は指先に息を吹きかける。曲の間、忘れていた緊張が戻ってきた。しかしそれは懐かしい心地よさを含んでいた。
 中原さく也の音は、好奇心に満ち溢れた幾百の耳を一蹴する。感想などの差し挟む余地を与えない。それほど影響力のある音色を、彼の弓は紡ぎだした。
 アンサンブルの時とは格段に違う。これが彼本来の音なのか?
――引き摺られる…
 指先の冷たさが、辛うじて悦嗣のピアニストとしての器量を保っていた。あの時のように、『楽』に取り込まれて『正気』を失うわけにはいかない。無伴奏曲ではない以上、今、このヴァイオリンと音楽を作っているのは、自分のピアノだけなのだ。引き摺られて、その役割を放棄することは許されなかった。
 対等ではありえない、しかし負けられない。
 演奏中、一度合ったさく也の目は、冴えていた。




 模範演奏が終わって、休憩。その後は、学生アンサンブルの演奏である。聴くだけでも聴いてやってほしいという、大学側の要請だった。
 休憩の間、さく也は学生や教授連に取り囲まれていた。さく也の冷たい印象から二の足を踏んでいた彼らも、演奏を聴いてしまってからは、もう我慢することが出来なかったらしい。
 悦嗣はその様子を階段状の一番後ろの席で、面白そうに見ていた。こればかりは助けられない。さく也は懇意でも困惑でもない表情で、輪の中心に座っている。あまり口の開閉が見られないので、ほとんど会話が成立していないことがわかった。
 悦嗣の隣の席に、
「お疲れさん」
と立浪教授が座った。悦嗣は「どーも」と軽く頭を下げた。
 いつもなら軽口で何やら話し掛けてくる教授が、黙ったままで悦嗣同様、さく也を見ていた。
「加納は」
 暫くの沈黙の後、彼が言った。
「いくつになったんだ?」
 悦嗣は前を向いたままで「三十一」と答える。
「おまえは…なんて時間を無駄にしたんだ」
 口惜しげな声のトーンに、教授の方に顔を向けた。
「曽和が言っていた。加納は自分の才能を信じていないって。私はそこまでおまえを評価してなかったけど、半年前の演奏を聴いて、曽和の言ったことがわかった気がしたよ。今日の演奏は、それ以上だ。在学中から、せめて五年前からでも本腰入れていたら、三大タイトルの一つも夢じゃなかったのに」
 悦嗣は頬杖をついて、またさく也の様子に目を向ける。
「才能には不可欠な要素が、二つ要ると思ってるんです」
 教授の言葉を受けるように、悦嗣が言う。
「努力と度胸がそれ。俺にもし才能ってものがあるとしても、努力と度胸が伴わないかぎり、無いのと同じさ」
 昔から練習は嫌いだった。練習しなくてもそこそこ弾けたので尚更だ。練習不足は人前での緊張に拍車をかける。それを知りながらステージに立つ度胸は、悦嗣にはなかったのだ。
「おまえは馬鹿だ。それがわかっていながら…」
 楽しく弾ければ良かった。コンサートやコンクールで弾く事だけが、ピアニストのすべてだとは思わなかった。緊張感も気負いもなく、好きな曲を好きな時間に弾く。それでいいと思っていた。
「あの頃は、それを乗り越える原動力がなかったからな」
 顎から手を外し、大きく伸びをする。
「先生、俺、実は少し後悔してるんです。もっと真剣にピアノと向き合えばよかったって。コンクールとかなんとか関係ない。ただあいつの音に相応しいものでありたかった」
 辟易したさく也が、階段を悦嗣に向って上ってくるのが見えた。先ほどまで二人が演奏していた壇上は、アンサンブルの準備が始まっているから、やっと解放されたらしい。
「あいつの音が…中原さく也の音が俺に後悔させるんだ」
「後悔しているなら、今から取り戻せよ」
 悦嗣はさく也の姿を見ながら答える。
「さっき先生も言ったじゃないか、『せめて五年前から』って」
 教授は目を見開いた。
 さく也が目の前まで来た時、悦嗣は立ち上がった。ポケットから煙草を取り出す。休憩時間は五分ほど残っていた。一本くらいはゆっくり吸える。
「いやはや、彼はバケモノだな。おまえはよく弾いてるよ」
 立浪教授の言葉に、悦嗣は肩を竦めた。話が見えないさく也は、二人を交互に見た。
 悦嗣は「外の空気を吸いに行かないか」と彼に話しかけ、頷くのを確認すると立浪教授に軽く頭を下げる。教授は英介と似た印象の笑顔で、手を振った。



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